天地人 直江兼続〜みにがいど〜

tenchijin 『天地人 直江兼続』
(メディアボーイ)

B5判 144P 1676円 ISBN978-4-903946-67-2

上杉謙信から“義”と“愛”を学び、景勝の参謀として戦国乱世を生き抜いた天下の名宰相・直江兼続。兼続60年の生涯を追いかけるダイジェストから、采配をふるった五大合戦、手腕をふるった政治や文化、兼続ゆかりの地・南魚沼・上越・与板・会津若松・米沢を紹介! さまざまな角度から兼続の生きた時代と舞台を徹底検証します。巻末には愛の前立ポストカードの付録も。

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ここでは本書のごく一部を紹介!詳しくは買って読んでのお楽しみに!!

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巻頭特集 天地人ダイジェスト 兼続60年の生涯を追う!
其之壱 天地人誕生
1560〜81(兼続生誕〜22歳)

樋口兼豊の長男として生まれた兼続は、初名を与六といった。のちに謙信の家督を継ぐ景勝(初名:長尾顕景)の近習に取り立てられて頭角を現してゆく。謙信死後、後継をめぐって争いとなった御館の乱で景虎に勝利し、景勝は上杉家の家督を継ぐことになった。その陰で兼続のはたらきがあったことはいうまでもない。

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坂戸城絵図
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七尾城跡
其之弐 天下人に愛された漢
1581〜98(兼続22〜39歳)

突発的な事件から未亡人となったお船と結婚し、直江家の名跡を継ぐことになった兼続。以後は景勝の重臣として信長の侵攻や新発田重家の乱など窮地を何度も乗り越えた。その名声は天下人・豊臣秀吉にも聞こえ、秀吉は直臣として召抱えようとし、米沢30万石を与えて厚遇したが、景勝との堅い主従関係は崩れなかった。

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肥前名護屋城跡
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豊臣秀吉(高台寺蔵)
其之参 米沢発展の基礎を築く
1598〜1619(兼続39〜60歳)

上杉家は関ヶ原の戦いで徳川家康に対峙し、敗戦となり減封となったが、兼続が拝領した米沢30万石はかろうじて維持した。兼続は家臣のリストラをおさえるため、領国の経営に尽力し米沢発展の基礎を築いた。そして上杉家も明治維新まで存続したのである。

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米沢城跡
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兼続・お船夫妻の墓
第一部 戦術の章 天下の名軍師・兼続の名采配
家督争いに決着をつけた先手必勝術
御館の乱(1578〜81年)

謙信死後、養子となっていた景勝と景虎の間で家督争いが起こった。越後を二分した内乱は、兼続の先手必勝ともいえる謙信の遺産を押さえ、景虎側の連携線を断ち切ったことで勝利に導いた。

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御館跡
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鮫ヶ尾城遠景
7年にわたって抵抗を続けた叛骨の将
新発田重家の乱(1581〜87年)

恩賞のもつれから景勝に反旗を翻した新発田重家。信長や芦名氏とも連携した巧みな戦術で景勝を散々に悩ませた。しかし、その重家も時流を読むことができず、秀吉の勧告に従わなかったため、最期は追い詰められて自害した。

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新発田城
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新発田重家(福勝寺蔵)
秀吉の天下統一総仕上げ
小田原平定戦(1590年)

秀吉は最後の戦いとして小田原城の北条氏を攻めた。景勝・兼続主従も前田利家とともに東山道を経由して関東の諸城を攻略した。北条氏は降伏し、伊達政宗をはじめとする東北の諸大名も臣従。ついに秀吉は天下統一を成し遂げたのである。

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小田原城とゾウ
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鉢形城跡復元四脚門
兼続の名を知らしめた東北の関ヶ原
長谷堂合戦(1600年)

秀吉死後、天下を狙う徳川家康の理不尽な催促に「直江状」で挑発した兼続。家康が会津攻めで進軍する隙に石田三成が上方で挙兵。関ヶ原の戦いが勃発した。兼続は出羽の最上義光を攻めたが、本戦での敗報を聞き撤退。この撤退劇は前田慶次の奮戦もあって、敗戦ながら兼続の名を全国に轟かせた。

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長谷堂合戦図屏風(部分)
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長谷堂城跡
鉄砲隊が火を噴く兼続最後の戦
大坂の陣(1614〜15年)

幕藩体制を確立した徳川家康は最後の総仕上げとして大坂城の豊臣氏を討伐した。兼続はかねてから鉄砲の鋳造に力を入れており、冬の陣の鴫野ではその鉄砲隊が威力をいかんなく発揮した。夏の陣ではすでに出番はなかったが、豊臣氏は滅亡し、元和偃武と呼ばれる泰平の世となる。

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大坂城
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大坂冬の陣図屏風(部分)
第二部 政治の章 天下の名宰相・兼続の手腕
謙信の軍費を支えた
越後の経済学

連年、各地へ出征しながらも莫大な軍資金を遺した上杉謙信。謙信は金山・銀山の経営ばかりか、経済の発展や商品の流通にも力を注ぎ、その手腕は兼続にも受け継がれた。

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春日山城図
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現在の直江津港
宝の島・佐渡をおさえた
兼続の先見性

豊臣・徳川政権の財政を潤した佐渡の金山。佐渡は兼続が平定し、代官になると産出量を飛躍的に伸ばした。佐渡はその後も幕府直轄地として莫大な金銀を産出し続けたのである。

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正徳佐渡小判
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坑内を描いた絵図(部分)
米沢の基礎をつくった
兼続の経営手腕

関ヶ原の敗戦で会津120万石から米沢30万へと減封された上杉家。父祖から仕える家臣たちを救うため、兼続は水利工事と殖産興業政策は、米沢盆地を潤して実高50万石に引き上げた。

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直江石堤
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米沢織
藩士の育成に力を注いだ
文化人・兼続

兼続は武将として、上杉家執政として優れていただけでなく、学問を愛し、詩を愛した一流の文化人でもあった。また、禅林文庫を開いて藩士の子弟の教育にも力を注いでいる。

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法泉寺文殊堂
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兼続詩碑(西明寺)
兼続に学んだ米沢藩中興の名君
上杉鷹山

米沢9代藩主・上杉鷹山(治憲)は、30万石から半減された上杉家の危機を救った改革の旗手。経費削減・農地復興・殖産興業な兼続の先例に学んで国を守り、治政の名君と称えられた。

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上杉鷹山(法音寺蔵)
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冬の蛋白源・米沢鯉
第三部 紀行の章 天地人ゆかりの地を旅する
景勝・兼続を育んだ上田の庄
新潟県南魚沼市スタンプ

魚野川沿いに開けた南魚沼は、天地人直江兼続と主君上杉景勝の生誕地。まだ二人がそれぞれ樋口与六・長尾喜平次と名乗っていた頃の話である。豪雪で閉ざされる大地から強靭な精神力・忍耐力を育んだ。

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雪の坂戸城遠景
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南魚沼市雪まつり
上杉氏の居城・春日山の城下町
新潟県上越市スタンプ

兼続は景勝とともに謙信に召されて春日山城へ入り、謙信死後に家督を継いだ景勝を支えて政務をとった。上越は大城郭化した山城の城下町と直江氏ゆかりの直江津港などから発展した。

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春日山城遠景
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春日山幕の内弁当(駅弁)
城主兼続とお船の里
新潟県長岡市与板町スタンプ

与板は兼続が直江家の名跡を継いで初めて城主となり、城下町の整備に力を入れた町である。信濃川左岸の水運で栄えた町は、現在もなお雁木の古い町並みが残り、伝統工芸産業の打刃物が行われている。

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直江兼続像
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与板城跡
幻と消えた神指の夢
福島県会津若松市スタンプ

景勝が会津移封となり、新天地での領国経営が関ヶ原合戦の発端になろうとは誰が想像したであろうか。兼続が12万人の人夫を動員して工事を急がせた神指城も未完のままに終わり、わずか3年で会津統治は終わった。

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会津若松城(鶴ヶ城)
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神指城跡
兼続が築いた米沢藩の城下町
山形県米沢市スタンプ

米沢は兼続が秀吉から拝領した30万石の城下町。関ヶ原の戦いで減封されたあと、米沢藩として維新まで存続した。兼続が町づくりをした足跡を散策してみよう。

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米沢上杉まつり
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米沢牛
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歴史人物の肖像や甲冑なども満載!
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